今回はDonちゃんの学会がイスタンブールではなくマルマリスでありました。行く前に地図を見たらロードス島がすぐそこ!これはもう行くしかない!と決めて、急いで私も国内線の切符をTM子さんに手配してもらいました。

マルマリスはイスタンブールから飛行機で1時間ちょっとのダルマンへ飛んで、そこから80kmくらいのところにある海岸に沿ったリゾートの街です。Donちゃんが学会に出ている間、私は一人でそこからロードス島へ行きました。マルマリスからはフェリーで1時間ほどでロードス島へ。ロードス島は現在ギリシャ領なので、いちおう出国手続きなどがあるので1時間前には船着場に行かなければなりません。

フェリーの中で塩野七生の『ロードス島攻防記』をよみふけっていました。

病人に奉仕することから始まった1306年にパレスティナを失った聖ヨハネ騎士団がビザンチン領であったこの島をジェノバ人と攻略。以降奴隷にされたキリスト教徒を救うという名目でトルコの船を襲う海賊業と、病院経営(無料)この島を支配していました。

『十三世紀末に西欧キリスト教勢がパレスティーナを完全に失って以来、しばらくの間は聖地巡礼も途絶えていたが、まもなく、ヴェネツィアをはじめとする西欧諸国は、聖地巡礼を目的とする団体旅行の企画をはじめる。イスラム教徒のほうも、地中海にキリスト教徒を追い落としたことで目的は達したのだし、巡礼の落とすカネに無関心ではいられない。妥協は成ったのである。西欧とパレスティーナの間を往復するようになった巡礼船の、パレスティーナに近く、しかも安心して病人を降ろしていける地がロードス島であったのだ。』
?塩野七生 『ロードス島攻防記』p.53より


そしていよいよフェリーはロードス島で、商業用に使われていた港に到着。ああ、ここがあ!!!!補填に送られた騎士もヴェネツィアの商船に乗ってたからこの港に入ったんだなあ。。。

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本当に城壁が海岸線に沿ってびっしり!


 
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この辺りはカスティーリアの持ち場。

海からは大砲による攻撃ができないのでこの辺りはマルティネンゴの設計した城壁ではありません。

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騎士団長の館。改築されて、イタリアの王様の別荘としても使われてました。


聖ヨハネ騎士団のメンバーは貴族出身でなければなりません。「青い血」が流れているといわれ、「キリストの蛇」と呼ばれた聖ヨハネ騎士団の騎士たち。対するスルタン・スレイマンもギリシャ語を話し、教養もずばぬけて高く、騎士団長のリラダンをして「彼こそまことの騎士である」といわせしめたとか。停戦の会談の場面は感動的です。

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騎士通り。この両側に母国語ごとに分かれた8つの軍団の館があります。

この海賊業が結構繁盛してたらしいです。敵と闘うことのみに存在理由をもつ騎士たちは怖いもの知らず。

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右側のはカレットの紋章が!ということはここはイタリア騎士館?

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100人は収容できたという病院。周りの小部屋は荷物置き場になっています。長旅の巡礼者達は荷物がたくさんあったので。

大砲の導入によって戦闘方法が大きく変わったコンスタンティーノープルの攻略から、中世の騎士の役割はどんどん地に落ちます。当時この病院の目的も、当時は聖地を守るという意味を失ってしまった騎士団の存在理由としてあったようです。

この部屋の片隅に、ファブリッツィオ・デル・カレットの墓標を見つけました。

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旧市街の建物はどれもこの砂色の石材でできていて、やさしい感じです。ロードス島の旧市街の特徴はこの中世からの街に今でも人が普通に暮らしていること。時代と共に住人はビザンティン帝国の人、トルコ人、ギリシャ人、と替わっていったのではあるけど。

聖ヨハネ騎士団はいまだにローマに本部があってコンドッティ通りに独立国として存在しています。そして今でも医療活動を続けています。赤字に変型十字のしるしをつけた病院や救急車があったらそれは聖ヨハネ騎士団なのです。