あれほど強大だったビザンティン帝国または東ローマ帝国がどんどん衰退して領土を縮小していって、15世紀に最後に残されたのがコンスタンティノープル。オスマン・トルコも今まで年貢を払うことで温存してくれてたのに、若いメフメット2世はそれが欲しくなっちゃったんですね。

347b1d33.jpg

すぐ近くのボアジチ大学から見たルメリ・ヒサールの一部


『コンスタンチノープルの陥落』に詳しく書かれているルメリ・ヒサールの建築にまつわる話も実際にその場に行ってみるとその大きさや距離感の実感がわいてきます。ここはボスフォラス海峡の特に狭いところ。対岸にも要塞があって、通行税を一方的に決めたオスマン・トルコが許可なく通貨しようとする船に攻撃をしたところ。これが事実上のコンスタンチノープル攻略の始まりでした。

ここから大砲を撃っても命中率は低かったはず。でも大きなガレー船なんかは数うちゃあたったかも。しかも黒海から流れる潮流がけっこう速くて、ヴェネツィアやジェノバの熟練船乗りでないと、ここを航海するのはけっこうむずかしかったんだそうです。

『そのうちに、岸に近い大塔から発射される砲丸が、水柱を高くあげはじめた。こちらの船は、大砲を積んでいない。積んでいたとしても、走る船から地上に向けて、誰が照準を決められよう。商船にも必ず乗っている石弓兵たちも、働きようがないのであった。塔の下で大砲を操作するトルコ兵の姿はよく見えても、石弓の的には遠すぎる。ここはもう、逃げることしかできない。』
?塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』より p.78


ここを通過する当時の船はさぞ怖かったでしょう。

さて所かわって新市街側にあるガラタ地区は当時ジェノバの居留区だったところ。今でも塔が残っています。

71284106.jpg

コンスタンティノープル側から見たガラタ地区とガラタ塔


5d6bdf55.jpg

ガラタ塔から見た旧市街(コンスタンティノープル側)

よく見えるなあ。これなら中立を貫こうとしたジェノバ人が、絶対トルコ側に情報を流していたとビザンティン帝国側についたヴェネツィア人に言われてもしかたないなあ。

金角湾封鎖で両岸に鎖を渡してトルコの船が金角湾に入ってこれないようにしたのに(この橋のもう少し左のあたり)、オスマン・トルコの軍隊は丸太を敷いて船に陸を越えさせ、このガラタ地区のすぐ横を通って金角湾に船をすべりこませてしまったわけです。

そしてコンスタンティノープルが陥落したときに、逃げられたのは唯一ここから船に乗れた人でした。

『西洋の人々は、ビザンチン定刻の滅亡によってはじめて、古代ローマという母胎から切り離された痛みを感じたのであった。』
?塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』より p.252